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日本酒の歴史 その1

・ 日本酒の歴史 その1

 
 日本酒の歴史は古く、日本書紀にもその記述が出てきます。
 スサノオノミコトが出雲の八塩折(やしおり)の酒を飲ませてヤマタノオロチを退治した話は以前にも書きました。
 米を原料として発酵させたお酒は、米の伝来とともに広まったといわれております。
 米はでんぷん質がほとんどですので、発酵させるにはまず糖分に変化させる必要があります。風土記などには、加熱した米を口の中で噛み砕いて、唾液と混ぜることで糖分に変え、お酒を作ったという記述が残っています。これを「口噛みの酒」といいます。お酒を作るときに「醸す」という言葉を使いますが、口噛みの「噛む」が語源ですね。この口噛みは巫女の仕事でした。

 今のように、蒸したお米を麹に混ぜて糖分を得る方法が生まれたのは奈良時代のこと。中国大陸で開発された麹を帰化人が日本に持ち込み、米麹による酒造りが始まり、広まっていきます。
 その帰化人の名前は、百済から渡来した「須須許里(すすこり)」であると古事記には記載されています。名前が残るくらい素晴しく画期的なことだったのでしょうね。
 この時代、朝廷により律令制度での法的支配が確立しますが、特筆すべきは「造酒司(さけのつかさ)」という役所が設けられたこと。朝廷のための酒造りが行われたことにより、醸造技術は飛躍的に発展していくことになります。
 古来、お酒は神とつながる神聖なものとされてきましたので、作られたお酒は宗教行事に使われ、庶民が酒を飲むということはなかったようです。

 平安時代になると、朝廷直属の酒造組織に代わり京都や奈良などの寺院で酒造りが行われるようになります。これを「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼びます。僧坊酒の流通により、お酒は神さまのものから人々が飲むものへと変っていくのです。
 僧坊酒の中でも特に評価が高かったのは、諸白(もろはく)と呼ばれるお酒で、精白した米を蒸し米と掛け米の両方に使ったもの。現代の酒造りの原型に近い醸造法ですね。
 蒸し米だけに精米を使ったお酒は片白と呼ばれましたが、やはり諸白の方が評価が高かったのは間違いないようです。

正暦寺石碑

 特に奈良で作られた諸白は「南都諸白」と呼んで珍重されました。まだろ過の技術はなく、どぶろくのようなものでしたが、それまでの酒造りは玄米のままでしたので、精米することで雑味が少ない、比べようもなくうまい酒ができたのです。貴重な米と、当時まだ技術が拙く手間が係る精米作業とで作られたお酒でしたので、とても高価なものでした。
 和歌山県高野山の「天野酒(あまのさけ)」、奈良県正暦寺の「菩提泉(ぼだいせん)」などが特に有名であったと伝えられています。この菩提泉は酒母の作り方を体系化したことでも知られ、清酒の発祥とも伝えられており、正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑があります。

 鎌倉時代から室町時代には全国の都市が発展し、それぞれを結ぶ流通経済が発展します。特に米は経済の中心でしたが、お酒も同等の価値で扱われておりました。この頃になると、それまで朝廷が大きく関わっていた酒造りも次第に神社や寺院で独自に作られるようになっていき、特に京都周辺では造り酒屋が多く立ち並ぶこととなります。

 お酒が広く出回るようになりますと、それで身を持ち崩す人も現れ、社会問題になりました。今も昔も同じみたいですね。これを重く見た鎌倉幕府は、我が国初の禁酒令を出すことになります。「沽酒(こしゅ)の禁」と呼ばれます。

 ところが室町幕府は、一転して酒造りを奨励します。造り酒屋からの税を徴収するのが目的で、幕府の貴重な財源となりました。また、酒蔵間の競争も始まり、酒造りの技術はだんだん高度になってきます。麹と蒸し米と掛け米を混ぜるのを1工程としてそれを繰り返す段仕込み、乳酸発酵の発明、木炭を用いたろ過など、現代の酒造りの基本が生まれます。
 全国的に酒造りも広まっていき、いわゆる地酒が生まれたのが室町時代です。

 長くなってきましたね。次回に続きます。

 (平成24年9月)

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