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日本酒の歴史 その2

・ 日本酒の歴史 その2

 
 前回は室町時代までの酒造りのお話でした。

 それまでは陶器の甕などを使った仕込みでしたので、量を作ることができませんでしたし、重たいし、割れるというリスクが常にありました。
 醸造に木造の桶を使い出したのが安土桃山時代です。焼き物の甕は大きさに限界がありますが、木工品である桶ならばとても大きなものが作れることから、生産量も飛躍的に伸び、また収益も上がりますので、酒造業という産業が確立していきます。織田信長による楽市・楽座の制度もあって、全国的な流通のネットワークが完成します。
 またこのころ、蒸留という手法がもたらされ、焼酎も生まれます。

 この焼酎を酒に加えると、それまでの甘い諸白がすっきりと辛口に変わること、また防腐作用もあることが発見されました。江戸時代に生まれたこの手法を「柱焼酎」といいます。このアルコールを添加する酒造りは現代でも行われており、吟醸酒という香り高いお酒を生み出すこととなります。

 江戸時代の初めまでは年5回の酒造りが行われておりました。これが冬だけの寒造りに統一されます。理由はいろいろありますが、まず税金を掛けやすくするため。また酒造りのプロである杜氏は農業との兼業でしたが、冬季は農閑期で人材を得やすかったこと、そして何より、寒造りの酒が一番美味しかったことです。ただ、年1回の酒造りですから、できた酒は翌年まで持たせなければなりませんので、先ほどの柱焼酎をはじめ、低温発酵や火落ち菌を除く火入れ処理などといった保存技術が生まれてきます。

 天保時代、兵庫県で灘の宮水が発見されます。水は全国どこにでもあるものでしたから、その質までは誰も省みることはありませんでした。ところが、どう考えても灘の酒は特別にうまい。その秘密を解き明かしたのが、灘の山邑太左衛門です。灘以外の土地でも宮水を使うと美味しい酒ができたことから、酒造りにおける水の大切さが明らかにされたのです。

酒樽

 また、輸送に船が使われるようになり、江戸と上方の交易も活発になります。特に上方の酒は灘や伏見に代表されるように、その水質から江戸の酒とは比べ物にならないくらいうまいもので、盛んに大消費地である江戸に送られるようになります。これを「下り酒」と呼び、大いにもてはやされました。反対に江戸の酒は「下らない酒」なので、つまらないことを「下らない」というようになったそうです。

 多くの荷を運ぶには船が一番ですが、甕では割れるリスクも大きいし、重たいのでそれほど多く乗せることができません。そこで輸送にも樽が使われるようになりました。この酒樽を積んで江戸に向かった船のことを「樽廻船」と呼びます。

 明治時代になると、2度の対外戦争などにより、国庫はあまり豊かではありませんでしたので、税金の徴収が厳しくなります。それまで家庭で自家用に作られていたお酒も密造として厳しく取り締まられるようになりました。
 瓶詰めのお酒が普及するのも明治時代です。末には一升瓶も発明されます。
 また国営の醸造試験所が設立され、山廃や速醸酛など科学的な醸造法が編み出されていきました。

 昭和に入り、第2次世界大戦後は食糧難が国民を圧迫します。お米を原料のお酒も厳しい時代を迎えます。アルコールで薄めた三増酒(三倍増醸酒)など粗悪なお酒が市場を席巻しますが、経済の回復とともにお酒造りは再び健全に発展する時代を迎えます。
 生活にゆとりが出ますと、量より質を人は求めますよね。より美味しいお酒造りを全国の蔵元は目指すようになります。
 酒造好適米の開発や良い水質を求めての酒造りが行われるようになり、お米をぎりぎりまで削る技術も進歩します。また国立醸造研究所は酵母の研究を進めていましたが、熊本県の香露という酒から見つけた酵母が、素晴しい香味を生み出すことを知り、吟醸酒の技術が生まれます。

 さて、今どのくらいの種類の日本酒があると思われますか。
 答えは、不明、です。数えた人がいないのですよ。2009年の全国の酒蔵の数は1709ですが、一つの酒蔵でも複数の名柄、種類を作っていますからね。
 ただ、酒蔵の数は年々減少傾向にあるのは確かです。
 星の数ほど、という言い方がありますが、長い歴史に育てられた多くの日本酒の中からお気に入りの一本に出会えたら、それは素晴しいことだと思います。

 (平成24年10月)

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