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黒田節と広島の酒

・ 黒田節と広島の酒

 ゴールデンウィークの5月3日、4日、博多のまちは「どんたく」でにぎわいます。
 どんたくはオランダ語の「ドンターク(休日)」が語源だといわれております。発祥は江戸時代。福岡城はまだ築城されておらず、東区の名島城が筑前のお城だった頃のことです。
 関ヶ原の戦が終わり、名島城の城主となったのが小早川隆景でしたが、跡を取った養子の小早川秀秋のところに、博多の町人たちが歌い踊りながら新年の祝いに行ったのが博多どんたくの始まりだともいわれています。

 秀秋に代わり福岡の領主となったのが黒田如水です。彼は手狭な名島城を嫌って中央区舞鶴に福岡城を築城しました。47のやぐらを持つ壮大なお城だったと記録が残っていますが、お城のシンボルともいえる天守閣がなかったと伝えられております。
 黒田家の一族が住んでいた備前国(今の兵庫県)福岡郷の名をとり、如水は九州のこの土地を福岡と名付けました。これにより福岡は、福岡と博多と2つの名前を持つようになったのです。今でも福岡市民は微妙に使い分けをしているんですよ。

母里太兵衛

 黒田藩といえば連想するのが筑前民謡・黒田節ですね。しっかりお酒もでてまいります。
 主人公は母里太兵衛(もりたへえ)。槍の名手で剛力の勇将ですが、何より彼を有名にしたのは黒田節に歌われる福島正則とのやりとりです。

 主君の黒田長政の使いで、太兵衛は福島正則のところへ赴きます。酒をこよなく愛した正則はいきなり太兵衛に酒を勧めますが、主君の使いだからとかたくなに断ります。しかし猛将の正則も後に引きません。だんだん険悪な雰囲気に・・・
 業を煮やした正則はなみなみと注がれた大杯を前に、飲み干せば何でも欲しいものをくれてやると約束してしまいます。しからばと太兵衛、見事に飲み干し、正則が豊臣秀吉から拝領した家宝の槍「日本号」を呑み取ったというお話です。一説ではこのとき飲んだ酒の量は7升もあったとか。
 この槍は、福岡市早良区の福岡市博物館に収蔵されております。

 正則がそれほど愛したお酒は広島のお酒でした。
 中国山地を水源とする清涼な水があふれ、米作りに適した平野が広がり、広島では古くから酒つくりが営まれておりましたが、知名度はあまり高くなく、灘のようなブランド品と比べると格段に安く評価も低かった時代が続きました。美味しい酒なのに、正則もきっとそれが悔しくて、太兵衛に認めてもらいたかったのかもしれませんね。

三浦仙三郎

 そうした広島のお酒は、一人の偉人、三浦仙三郎氏の努力により一躍全国のトップクラスにまで躍り出てくることになるのです。
 明治の中頃に彼は酒造りの仕事を始めます。不慣れなこともありなかなかうまくできなかったのですが、研究熱心な彼は何度も灘に足を運び、それこそ樽の洗い方までしっかりと勉強しました。
 当時の酒造りは杜氏の経験と勘が支配する職人の世界だったのですが、彼は配合や温度などすべてを数値化して、合理的な作り方に挑んだのです。東広島市にある銅像に彫られた「百試千改」という文字が彼の努力を表しています。
 そしてついに軟水醸造法という醸造技術を確立させます。広島県特有の軟水をうまく利用して、より低温で米を発酵させるという技術なのですが、これにより飛躍的にうまいお酒が造られるようになったのです。
 素晴らしいのは、努力の末開発したこの醸造法を、近在の酒蔵はもとより、それを求める全国の酒蔵に惜しげもなく伝授したこと。未だに酒造りの神様と慕われる彼なくしては広島の酒は語れないのです。
さらに彼の軟水醸造法は、後世になって吟醸酒という日本酒史上画期的な発明を生むに至ります。

 広島のお酒は、軟水をうまく活用した「女酒」とも呼ばれます。口当たりはまろやかで、きめが細かく豊潤な味わいのお酒です。鑑評会でも入賞常連の著名な酒蔵も多く、広島県内には70近くの酒蔵があります。機会がありましたらぜひ一度、味わってみてください。

 (平成22年5月)

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